top of page
青い空

記事

  • はなさき貴広事務所

故深堀柱氏

更新日:2022年12月30日

 故深堀柱(ふかほりあきら)氏は、15才の時に学徒報国隊員として長崎消防署にいたときに被爆されました。18才からジャーナリストとして活躍され、テレビ長崎では報道局長を務められました。1990年にテレビ長崎を定年退職された後は、カトリック長崎大司教区の広報委員を務めながら、主にカトリック系の学校や教会などで被爆体験を証言する活動を行っておられました。その活動は日本国内だけではなく、2009年にはイタリアのピエモンテ州にて、また2011年には政府の「非核特使」として世界13カ国14都市にて、被爆証言をされています。


 2017年8月8日、長崎で開催された全国マスコミ共闘会議主催のフォーラムで、深堀柱氏が被爆証言をしたときのスピーチ原稿の第13章『避難した五島列島・福見』には、以下の記述があります。

「(1945年)9月になって、米軍が長崎に上陸か―と言う情報で私たちは漁船をチャーターし、重症の祖母を甲板に寝かせ、五島列島に避難しました。目指したのは、現在の新上五島町岩瀬浦郷福見という集落です。しかし、重症の祖母は、福見について数日もたたず、黄色い唾液を大量に吐き、亡くなりました。福見には、それから、私の中学校の授業再開の話を聞くまで、およそ1年、暮らしました。地元の方には衣食住、大変お世話になりました。被爆70年を過ぎた今では大半の人は亡くなっています。一番、お世話になった92歳の女性が健在と聞き、被爆70周年には新上五島町を訪れ、喜びを分かち合いました。すでに鬼籍に入っている恩人の墓には妻、子どもに支えられて墓参りができました。」


 このフォーラムでの証言を最後に、深堀柱氏は、証言の時に使用した原稿を「一番お世話になった92歳の女性」に寄贈し、その年の12月13日に急性心筋梗塞のために87才で他界されました。また、当該原稿を寄贈された私の祖母も、深堀柱氏が亡くなる前の月に他界しています。


現在、祖母の遺品として、私の手元にある原稿の最終章『次の世代へ~核兵器禁止条約に寄せて』には、深堀さんの遺言ともいうべき以下の記述があります。

「先月(2017年7月)、国連で『核兵器禁止条約』が核保有国や日本政府は不参加でしたが、賛成多数で採択されました。条約は核兵器の廃絶を目指すものですが、その行方はまだわかりません。私は、核兵器禁止条約には大きな期待を持っています。鬼籍に入っても、私は条約の行方を、気にし続けてしまうかもしれません。私が生きている間の核兵器廃絶は、残念ながら無理でしょう。でも、平和への思いは、きょうここにいる皆さんにも、つないでいって欲しいと思います。きょう、初めて、被爆者の体験を聞いた方もいらっしゃると思いますが、どうぞ、昔話と思わず、自分のこと、自分の家族と置き換えて、考えてみてください。核兵器は絶対に使ってはいけない、なくさなくてはいけない。どうぞ、これからも、平和への思いを広げていってください。きょうはありがとうございました。」


 私は、祖母が繋いでくれた深堀柱氏の核廃絶への思いを、今後引き継いでいく責務を感じています。

閲覧数:87回

最新記事

すべて表示

故淺沼信夫氏

「ダメだということが悪いことではない。ダメだということがわからないことが一番悪いことだ。ダメだということがわかれば、次の選択肢に進める」 プラグマティズムとは、グローバル化や多様性が進む現代社会において、自分の価値観や既存の価値観を絶対とはせずに、修正を加えながら前進する考え方だといわれています。 故淺沼信夫氏は、典型的なプラグマティストでした。 少子高齢化による人口減少に加え、漁獲量の減少、魚価

故本島等氏

「あんた、市のもんね、県のもんね。」 「ただの不動産屋です。」 私の目を真直ぐにのぞき込んでくるその男に、何か得体のしれない違和感を抱きながら、私は正直に返答しました。 私が城尾哲也と遭遇したのは2006(平成18)年のクリスマスでした。 不意に、私に話しかけてきたその男は、少しがっかりしたように見えました。 売買物件の案内をするためにお客様を待っていた私を、その男は自分を待っていた市か県の職員と

bottom of page